襟足から雫が垂れ落ちる。


兄様はその一滴すら拾ってくださる。



献身



帰る家があるのはいい。

他の隊員が隊舎に寝泊りするのに、申し訳なく思いながら腹の底ではそう思う。

昔は家に帰りたくなくて、わざと残業を作って最後まで執務室で粘っていた。

帰れば薄暗い部屋の兄様のお背中に、一日の仕事の成果を逐一ご報告せねばならない。

兄様は何も仰らなくても、その場の空気が私を責めるようで嫌だった。

いつまで経っても席官になれぬのは、その体たらく故だ。

そう言われているようで。

今では上司の誘いも断って、終業時刻になれば真っ先に執務室を後にする。

すでにお帰りになっているであろう兄様の元へ、私も早く帰りたい。

夕食を共にして、今日あったことや兄様ご自身のこと、何が好きか嫌いか。全部聞きたい。

ずっと聞けなかったこと。立ち入れなかった兄様のお心も、今では。


玄関では下女たちが私の帰りを待っていた。

口々におかえりなさいと言ってくれる、その全部にただいまと返す。

聞けば兄様はまだお帰りにはなっていないらしい。

六番隊を覗けばよかった。帰路をご一緒できたかもしれぬのに。

今日が終わる。疲れを取るため、まっすぐ風呂場へ向かった。


風呂から上がり、適当な着流しを身に着けて、廊下に出る。

夕餉の準備が出来ているようで、遠くの食堂から香ばしい匂いが漂ってくる。

もう陽も沈みかけてあたりは薄暗いのに、兄様の気配はまだない。

今日はお忙しいのだろうか。

まさかと思い、通り過ぎかけた兄様のお部屋の障子を小さく開ける。

部屋には行灯の灯りが揺らめいているだけ。やはり兄様はおいでにならなかった。

いけないとは思いつつ、足を踏み入れる。

兄様の匂い。

いつも夕餉の後この部屋で、私の下らぬお喋りに付き合ってくださる。

好奇に満ちた詮索を疎ましがらない。

兄様の全てを知りたいのです。そんな僭越で無礼な申し出にも、嫌な顔一つせずに。

むしろ私のことも知りたい、と仰ってくださった。

私は幸せ者だ。敬慕する方から望まれて。


静かな足音が聞こえた。

我に返って急いで部屋を出ようと振り返る。

「ルキアか。」

「に、兄様・・・」

兄様が部屋に入ってこられた。

「私の部屋で何をしていた。」

咄嗟に膝を折って頭を垂れた。

「申し訳ありません!兄様がお帰りでなかったので・・・」

まるで支離滅裂な言い訳をする子供だと呆れられただろうか。怖くて顔を上げられぬ。

「構わぬ。頭を上げろ。」

兄様が膝を付いて私の髪に触れた。

ふいと兄様の指先につられて顔をあげる。

見目麗しいお顔が私を見つめていた。どうしよう。きれい。

「・・・髪を乾かせ。風邪をひいたらどうする。」

兄様の目が意味深長に、何かを孕んでいる。

目が離れない。言葉にしてはならぬ想いが、兄様の瞳に宿る。

「返事を。」

「は、はい・・・」

声が震える。

返事をしたのに兄様は私の前で膝を付いたまま。

「兄様・・・?」

「何も言うな。」

兄様のお顔が迫る。逃げようと身体が引けて、体勢を崩す。

尻餅をついて動けない私を兄様の影が覆った。

手首を掴まれて畳に縫い付けられる。

目を瞑る。これから起こることが怖くて。

兄様の、そのお心が、見えなくて。


掴まれた腕が震えているのが自分でもよく分かる。

兄様のお望みを叶えてさしあげたくて。

でも全てを叶えるのには、相応の勇気が必要だということに嫌でも気付かされる。

兄妹の砦を越えてはならぬ。

兄様の大切な方を裏切ってはならぬ。

しがらみから逃れるよう、ますますきつく、目を閉じる。

「・・・目を開けろ。」

兄様のお顔が離れるのが分かった。

桎梏としての兄様の手が離れる。薄々と目を開ければ、兄様はもう見えない。

「夕食の席までに、髪を乾かしておけ。」

兄様が障子に手を掛ける。

何事もなかったかのように、いつもの凛とした声で。


兄様は私のために生きてはくださらない。

そんなことは初めからわかっていた、けど。

私はどうだと問うた時、兄様のための生き方を選んでいた。

苦ではない。ただ勇気が要るだけで。

掟や秩序を超えて、盲目だと非難されても、私は。

「白哉兄様・・・」

兄様が一瞬こちらを振り返る。

容姿端麗、眉目秀麗。そんな言葉で表せぬほど、兄様は美しい。

そんな方に、望まれるのなら。

「兄様の、お心の通りにルキアは在ります。」

兄様は私の心なんてそんな矮小なものは気にしなくていい。

過去の孤独ならとうに忘れた。

それを過ちだったと御自身を責め苛むことなど。

「だから兄様・・・」

「ルキア。」

兄様の身体が動く。

再び私の目の前で腰を折って今度は両の腕で私を抱擁する。

「いつか、お前の心を誰かに渡さねばならぬ時が来る。」

顔を上げれて反論を試みれば唇を塞がれた。

すべてを裏切ってしまった。掟も、緋真さまも。

兄様を好きになればなるほど、良心の呵責に苛まれる。

けれど、これが兄様のお答えなら全てが是になる。

「しかしそれまでそれは、現世の少年の物でも、私の部下の物でもない。」

耳元に唇が寄せられる。

「己の誇りを護るのは、己自身だ。」


兄様は優しいお方だ。

私自身でさえ卑小な存在なのに、それ以上にちっぽけな私の心を大事にしてくださる。

だからせめて、その愛情をお返しできるよう努めよう。

ずっと傍にいよう。誰も私の心を奪えないように。

兄様に全てを捧げよう。兄様のために生きよう。


それくらいでは足りないくらい、私の全てを献じても、足りないほどに。



Fin


--------------------------------------------

白ルキ久しぶり!34巻に今更萌え。
プラトニックに甘くすんのがむずかしーっす。白ルキ。


ブラウザバックで戻ってください。